2012年11月25日日曜日

TURNING QUESTION(田村幸一郎さん)


 ある日、ご両親のことで、息子さんが相談にやってきました。

経過 

 息子さんの父親は、いつものように、散歩がてらタバコを買いに家を出たものの、なかなか帰って来ませんでした。心配して外を見に行った母親が目にしたのは、滑って頭を打ったらしく、意識をなくした父親の姿でした。
 すぐに救急車で病院へ運び、意識が戻った時には、誰か?どこか?がわからない「認知症になっていた父がいた」そうです。
 心の整理もつかないまま、息子さんは、医者から「今後のことを相談するように」と、来所され、相談援助が始まりました。

質問

「悪い夢でも見ているようだ」と大きくひとつ息を吐いた後に、息子さんは(ずっと、誰かに、訊いてみたかったけど、訊けなかったのだけど)

「ねえ、田村さん、親父はなんで認知症になったのだろう?」

と、尋ねてきました。
 この時、正直、私に答えは持ち合わせていませんでした。

 ただし、この質問は「息子さんの今後の介護生活にとって重要なこと」であることは、感じました。

 そこで「1日そのことについて考えさせて欲しい」とお願いをして、その日は、そのことに、思いをめぐらせていました。

考察 

 息子さんが「なぜ親父は認知症になったのか?」と、その理由にこだわったのには、たぶん、そこに意味を見出さないと、やりきれない思いだったのだと、察しました。
 例えば、息子さんの質問に、医者ならば、「それは脳にダメージを受けて・・・」と原因についてエビデンスを答えたかもしれないし、看護師やセラピストならば、「現在の状態は・・・」と機能についてのアウトカムを答えたかもしれません。でも、それらは「今後介護の支援を必要とする息子さんのやりきれない思い」までは解決できなかったに違いありません。
 ソーシャルワーカーの私の役割は、介護者である息子さんと介護される父親の両方のストーリーをつなげるところからはじめることだと思いました。

事例 

 翌日、私は息子さんに「たぶん、親父さんはみなさんとゆっくりお別れをしたかったのではないでしょうか?」とお伝えました。
 突然、家族とお別れするにはあまりに惜しい、何か家族のヒストリーがあるのではないか?
 これから介護を通じて起きるケミストリーがきっと「ゆっくりお別れしたい」という親父さんの意思・選択の意味を教えてくれるに違いないと思ったからでした。
 欠けがない、でもやわらかいゆえに、蓋をして触れないようにして、心の奥深くにしまって置いたら、いつしか忘れかけていたものが、認知症になったことで、表に出てくる「奇跡」が、稀に、あります。ある日突然、認知症になってしまった親父さんとその息子さんが、そうでした。
 公務員だった親父さんは、実に教育熱心でした。その期待に応えて、息子さんは某有名・難関国立大学に入学しました。親父さんにとってそれは何よりも自慢でした。しかし、息子さんは、大学を中退し、料理職人として飲食業を営む道を選びました。親父さんは、そのことを「水商売」と一蹴して、認めることは、決して、ありませんでした。そんな頑固な親父さんと息子さんとは、当然、素直になれない間柄でした。
 認知症になってから、ある日突然、認知症になった親父さんを目の当たりにして、商売の事情から、息子さんはグループホームへ入所させることにしました。
 入所させてからも、息子さんは夕食時の仕込みが忙しくなる時間の前に、休憩時間を割いて、毎日のように、顔を見に来ていました。一方、親父さんは、もともと口数が少ないほうで、息子のことをわかっているのかわからないようでした。
 グループホームでは、まちのお祭りに合わせて、家族を招いて食事会を考えていました。その話をたまたま小耳に挟んだ息子さんは、「いつも親父がお世話になっているので、外出することもままならない入所者さんのために、店の職人を連れ来てお寿司を握りましょう」と申し出てくれました。

奇跡 

 お祭りの日。グループホームでは息子さんが入所者さんの目の前で寿司を握り、店と同じように振るまい、大いに喜ばれました。普段、食欲のない入所者さんも、両手で口に寿司を運んで、「昔、こうして食べに出掛けたもんだ」と、見たことのない満面な笑顔で、家族との会話が弾んで、和やかな雰囲気になりました。その時でした。親父さんがすくっと立ち上がり、姿勢を正し、誇らしげに言いました。

「あそこで、寿司を握っているのは、わしの息子なんだ」

 一瞬、緊張が走ったものの、すぐに大きな拍手に変わり、親父さんは照れて、仁王立ちのまま固まってしまいました。その瞬間、私には父親と息子のわだかまりが解ける音が、確かに、聞こえました。
 親父さんは、職人になった息子のことを、実は許しているし、誇りにさえ思っていることを伝えるために、認知症の力を借りたのだと思いました。しばらくして、息子さんが私に歩み寄ってきて、「『ゆっくりお別れするために認知症になったのでは?』と言った、田村さんのことばの意味が、今、わかった」と、目に涙を浮かべて、静かに握手を求めてくれました。

最期 

 数ヵ月後、胆嚢がんがわかった親父さんは、家族に看取られて亡くなりました。息子さんは医者から「本来、これだけ進行し、しかもこの場所にがんができていると、相当苦しくて痛いはずなのに・・・認知症のおかげで感じないのかな?」と不思議がられたそうです。「結局さ、認知症では死ななかったな」と、満足した笑顔で、息子さんは私に語ってくれました。

あとがき 

 相談をしてくれた人に、手を合わせたくなる、感謝したい瞬間ってありませんか?そんな時、ソーシャルワーカーの醍醐味を感じます(福祉の仕事20年目なのに、いまだに、青二才?)
田村幸一郎(たむらこういちろう)さん。
97年入会。 会員番号7252
1970年、美幌町生まれ。介護福祉士、主任介護支援専門員
職場は変わっても、福祉の仕事は続ける自称「ふくしバカ」。
特技は、珈琲抽出。いつかソウルミュージックと古書が売りの『カフェ』をやりたいと野心を抱いている。

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